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    カテゴリ:社会 > 歴史


    日本(軍)の疑心暗鬼

     日本は性善説に立つ国で、下記のように人権や人道、国家主権などを重んじる数少ない国である。明治以来のこうした積善が認められ、世界で尊敬される国の上位にランクされ続けてきた。

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     その第1は奴隷の釈放である。

     アブラハムリンカーン米国大統領1862年9月に奴隷解放を宣言したが、大陸横断鉄道建設などで依然として奴隷を使っていた。

     ペルー船「マリア・ルス号」が横浜港に立ち寄った折に中国人苦力(クーリー)を輸送していることを知った副島種臣外務卿(外務大臣)は、奴隷運搬船と判断し国際裁判で勝利する。

     奴隷解放宣言から10年しか経っていない時である。

     第2は人種差別撤廃である。

     第1次世界大戦後の1919年、パリ国際会議に参加した日本代表団は国際連盟規約に人種差別撤廃条項を盛り込むように再三にわたって提案する。

     しかし壁は厚く、「提案が連盟で採用されるまで主張し続ける」といって引き下がらざるを得なかった。黒人系のバラク・オバマ大統領誕生は2009年のことであった。

     第3は植民地解放である。

     日本は東南アジア植民地解放の必要性を訴えて大東亜戦争を戦う。有史以来の敗戦という惨めな結果となり未曾有の困難に直面したが、多くの独立国家が誕生して〝植民地解放″の目的は果たされた。

     この大東亜戦争の前半が支那事変で、1937年7月7日日本軍が攻撃された盧溝橋事件に始まる。

     北京周辺の日本軍駐屯は1900年の北清事変(義和団の乱が発端)の結果として認められていた。

     日本は不拡大方針をとるが、広大な領土に引き込んで疲弊させ、あるいは上海に構築した強力な防衛線で日本軍の粉砕を企図した中国は停戦どころか、拡大させていった。

     こうして起きたのが南京攻略戦であり、大虐殺の汚名を着せられる。多くの日本人は信じられなかったが、最も驚いたのは現地で戦っている日本軍であった。

     現場で虐殺などの状況は見られないが、上海などの南京外から暴虐の情報が聞こえてくるので、〝どの部隊がどこで悪行を働いているのか″、〝日本軍がそんなことをするはずはないだろう″と疑心暗鬼に捕らわれたという。

    朝日新聞が掘り起こした「南京大虐殺」

     ドイツの協力で何重にも構築した上海の堅陣を破られた蒋介石は、南京の防衛戦に移行する。

     しかし南京の防備は軟弱のため早晩落城することは目に見えており、首都を重慶に移転して日本軍の暴虐を世界に宣伝する戦略に転換する。そのために、南京戦が始まる直前に「国民党宣伝部国際宣伝処」を設けた。

     徹底抗戦を命じた唐生智防衛軍司令官は、日本軍の南京開城(降伏)勧告を無視して落城寸前に逃亡して混乱を作為し、また日本軍は自分たちの食糧にも窮する状況下で得た数万の捕虜に困惑した。

     爾後の作戦に無害とみられる者を釈放するため移動しているところに反乱が起き、致し方なく武力鎮圧せざるを得なくなる。

     清水潔氏が『「南京事件」を調査せよ』で明かす兵士の陣中日記に見るように、凄惨な処刑も行った。軍法会議で捌かれるべき事件であるが、中国側は「日本の暴虐」として宣伝する。

     しかし、当時、200人以上いた日本人新聞・通信記者、写真家、さらには作家や大使館員などは誰一人として虐殺事件として報じなかった。

     捕虜、ましてや一般市民をむやみに殺害し、電線に吊るし、頭皮を剥がし、睾丸をえぐり、時には写真で見るように女性の陰部に棒を差し込むなど、猟奇事件にも似た、いわゆる「虐殺」などは一切見ていないからである。

     現地の日本軍には「寝耳に水」であり、昭和天皇にもその筋でないところから聞こえてきたという(NHKスペシャル2019年8月17日放映・田島道治「拝謁記」)。

     東京裁判でも「暴虐」の亡霊が漂い、戦後しばらくは日本の不名誉としていたぶり続けられるが、それも間もなく忘れ去られた。

     再度亡霊が漂い始めたのは、朝日新聞がルポ「中国の旅」で再発掘する1971年以降である。

     中国は本多勝一記者の取材を許し、日本軍が残虐を極めたとした報道は単行本『中国の旅』として幾つかの出版社から発刊され続ける。

     産経新聞平成28年5月14日付)によると、「『南京事件』は戦後、一貫して歴史教科書に記載され続けてきたわけではない。東京書籍の中学歴史教科書の場合、昭和53年度用(52年検定済み)から『南京虐殺』の文字が登場し、犠牲者数はこの時点では『おびただしい数』とあったが、その後、『20万以上ともいわれる』『中国では30万以上とみている』(59年度用)などと記されるようになる」

     その後は、他社の教科書にも同様の記述が見えるようになり、次いで高等学校日本史教科書にも記述されていく。

     まさしく、『中国の旅』の影響としか思えないし、中国は1985年に30万人大虐殺と明記した記念館を南京に建設する。

     顕彰した本多勝一記者の写真や取材ノート・著作物などを、国際社会に広めて一躍有名になった中国系米国人アイリスチャンの写真などと共に展示した。

     1998年に国賓として来日した江沢民は、南京事件をはじめとした日中戦争間の被害を3500万人とする歴史戦を展開する。

     しかし21世紀に入ると、蒋介石が宣伝戦で勝利を獲得する方便としてでっち上げた虚構であることを証明する資料が次々に発掘され、いよいよ「南京大虐殺」は完全消滅の危機に立たされた。

    領土拡張とナショナリズムの高揚

     そこに登場したのが「中華民族の偉大な復興」を掲げた習近平国家主席で、2012年のことである。清朝時代の領土を回復し、ナショナリズムの高揚で精神的な強国を作り上げるというのだ。

     この遠大な目標を達成するため、2020年までにGDP(国内総生産)を倍増(2010年比)させる経済発展と世界最強の軍隊を創設して勢力圏を拡大し、米国に代わるか、さもなければ米国と二分する覇権国になるというものである。

     南シナ海の環礁を領有権主張の根拠となる島とするために2013年後半から埋め立てる一方で、経済支援のインフラ外交で友好国を増大し、一帯一路で勢力圏を拡大していく。

     内々では2025年までに台湾を統一、30年までに南シナ海を内海化、40年までに東シナ海、建国100年を迎えた2050年にはシベリアを中国領にすると語っている。

     こうした物理的な拡張は強力なリーダーシップナショナリズムで支えなければならない。そのために終身皇帝への道を固め、日本をこれまで以上に悪逆非道の国家に仕立てて徹底的にいたぶり尽くす戦略を立てたのだ。

     満州事変が始まった9月18日は国恥記念日と以前からみなされてきたが、2014年2月27日の全国人民代表大会(全人代=国会に相当)で、新たに対日関係の2つの国家記念日を制定した。

     一つは9月3日の「抗日戦争勝利記念日」である。

     国家創設間もなくの1951年以来、「対日戦勝記念日」として行われてきたが、「抗日戦争勝利」としたところに、国民のナショナリズムを刺激する要素を埋め込んでいる。

     二つ目は12月13日の「国家哀悼日」の新設である。

     南京を占領した日であるが、「約40日にわたる大虐殺が始まった日で、30万人以上の中国人が殺された」と主張して哀悼日とした。

     習近平主席がこの年の12月13日に南京の記念館を訪れ演説して檄を飛ばしたことから見ても、習近平氏のナショナリズム高揚の眼目であったに違いない。

    WWⅠにおける宣伝戦と検証

     第1次世界大戦に米国は当初参加しなかった。ドイツに蹂躙され続ける欧州、中でも英国は何としても米国を参戦させたかった。しかし、米国民はなかなか動かなかった。

     そこで、ドイツ兵は占領したベルギーの街の子供を見つけ次第に手首や指を切り落とし、鉄砲を撃てないようにしているという「可哀そうなベルギーの子供たち」の話が作られた。

     余談であるが写真撮影でVサインをするのは、戦場から帰還した兵士が「指はちゃんと付いているよ」と見せて安心させたことに始まると言われる。

     またドイツ軍はゼンプストにある馬方ダビッド・トルデンの家に押し入り主人を縛り上げ、13歳の娘に5、6人が襲いかかり暴行した。9歳になる息子を銃剣で切り刻み、妻は銃殺した。

     ブリュッセル近郊ではドイツ兵が家を焼いたが、兵の手にかかる寸前に赤ん坊が助け出されたとデイリーメール紙が伝えた。

     掲載の翌日、本社から赤ん坊を連れてこいという電報が来る、また赤ん坊を養子にしたいという手紙が5千通も届いた。アレクサンドラ王女からも心のこもった電報と乳幼児用の服が送られてきた。

     こうしたドイツの蛮行を裁くため、報道に対する検証が戦後行われる。

     また米富豪が手首を切られた子供をみな引き取りたいと発表したから、手首や指を切られた子供やトルデン家の調査などが行われたが、すべては事実無根であることが分かった。

     アレクサンドラ王女の涙を誘った生き残りの赤ん坊の話しは、本社から敵の残忍さを語る記事を送れという電報を受けた記者が再三の催促に、取材に行かないで書いた嘘であった。

     作り話といえないので、赤ん坊は伝染病で死亡したが感染を恐れて葬儀もできなかったことにしたという。

     英政府は国民に義憤、恐怖、憎悪を吹き込み、愛国心を煽り、多くの志願兵を集めるために嘘を作り上げ広めた。

     また米政府と共謀して捏造した多くのプロパガンダで世論を沸騰させる。この世論に動かされた(とカムフラージュした)形で、米政府はドイツ宣戦布告し参戦する。

     こうしたプロパガンダの実体を暴いたのはアーサー・ポンソンビー(『戦時の嘘』)で、戦時プロパガンダは10項目に集約できるとした。

     その後、第2次世界大戦から2001年の貿易センタービ攻撃位までを項目ごとに分析したのがアンヌ・モレリ著『戦争プロパガンダ 10の法則』である。

    米国人宣教師たちが告発

     ポンソンビーの第5則は、「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる」というもので、敵を悪逆非道に仕立てるプロパガンダである。

     支那事変において蔣介石が「日本軍が残虐行為を行っている」と宣伝戦に出たのは、上海戦に敗北し、日本軍が南京に向かって追撃戦を行っていた11月のことであった。

     この時、蒋介石国民党中央党部と国民政府軍事委員会を「国民党中央宣伝部」に改組し、普通宣伝処や新聞事業処のほかに「国際宣伝処」を作った。

     東中野修道氏が発掘した「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」は、「極機密」と押印され、宣伝の手口を克明に書き記した玉手箱であった(「『南京大虐殺』という虚構宣伝の全容と教科書のウソ」、『正論』平成18年7月号所収)。

     別冊子の「宣伝工作概要」には「宣伝戦で敵を包囲し、最後の勝利を勝ち取る」と書かれており、この実現のために中央宣伝部は全力投入していたという。

     少年時代外人部隊に入隊し、長じて新聞記者・大学教員になった米国人フレデリックウイリアムズは一時、蔣介石軍に従軍する。

     その時の状況を「蒋介石プリンターインクで戦っている」と『中国の戦争宣伝の内幕』に記している。宣伝戦で勝利を勝ち取るべくプロパガンダに全精力を投入していたのだ。

    「宣伝戦で勝利を勝ち得る」ためには、次の3つが必要であると東中野氏は言う。

    日本軍が暴行を働くよう仕向ける
    ②誰かが日本軍の暴行を告発する
    ③告発を世界に発信する

     そして、南京防衛軍司令官の唐生智が南京城陥落前夜に脱出したことから、爾後数日間の大混乱を招き、大量の捕虜発生と暴動鎮圧が①の状況を作為したとみる。

     また、南京攻防が指呼の間に迫る11月23日から陥落前日までの約3週間、唐生智司令官や首都警察長官、南京市長、各国大使館代表、宣教師、新聞記者などは毎日お茶会と記者会見を開いて中国軍と欧米人の交流を促進し親密度を深めて②の状況を作る。

     現に数人の記者や宣教師などは政府や党の顧問などとなり、こぞって告発している。

     この①②は南京の戦場における行動であるが、③は重慶に本拠を移した国際宣伝処の下で、上海・香港の支部、昆明とニューヨークシカゴワシントン(米)、ロンドン(英)、モントリオール(加)、シドニー(豪)、インドシンガポールなどに設置された事務所が機能した。

     告発を世界に発信したのは唐生智司令官らと誼を深めていた新聞記者や米国の宣教師たちである。

     こうして発信された告発は、ほぼ事件が終結した半年後の1938年7月、2冊の書籍(『戦争とは何か』『スマイス報告』)に纏められ、世界に流布して震撼させることになる。

    米大統領を動かした反日組織

    『戦争とは何か』で日本の罪状を告発した豪州出身で英マンチスターガーディアン紙の特派員H・ティンパーリーは国民党中央宣伝部の顧問に付いていた。

     表の顔は特派員であったが、裏は国民党の秘密工作員で、日本の罪状告発の立役者として大活躍する人物である。

    『戦争とは何か』の執筆者の一人であるJ・フィッチは中国YMCA主事で、協会関係者にしてロータリークラブ会員でもあり交際範囲は絶大であった。

     告発の16ミリ・フィルムを米国に持ち込み、半年以上にわたって全米で講演旅行し、また主要な団体の幹部らと会談するのも容易な人物であった。

     こうした人物が米国その他とどのように関係していたかを抉り出したのは江崎道朗氏の「日本を泥沼に落とし込んだ米中ソ二つの反日ネットワーク」(『正論』平成18年8月号所収)である。

     19世紀末に天津にYMCAキリスト教青年会、プロテスタント系)会館が初めて建てられて以降、1924年には約90人の米国人主事が派遣され、中国人主事も313人がいたという。フィッチは中国に派遣された一人であった。

     プロテスタント各派は中国で圧倒的な勢力を誇っていたYMCAと連携して次々と大学を建設した。24あった大学のうちの14は伝道団が創立・運営したキリスト教系であったといわれる。

     蒋介石1927年に米国でも知名度の高かったクリスチャンの宋美齢と再婚し、30年にクリスチャンに改宗すると、米国のキリスト教団体は蔣を熱烈に支持する。

    『戦争とは何か』が発刊された同月にYMCA北米同盟の支持を得て、日本軍の行動を非難し、対日禁輸を米政府に要求する反日組織「日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会」(アメリカ委員会と略称)が結成される。

     名誉会長は元国務長官H・スティムソンで、漢口で総領事をやった人物が理事長となり、在中宣教師や著名なヘレン・ケラーなどが発起人となる。

     また同時期に、YMCA世界同盟の主導で中国と関係の深い国際伝道団体が「中国を援助する教会委員会」(教会委員会と略称)を設立して中国支援を開始する。

     この組織は全米12万5000のプロテスタント教会およびほぼ同数の関係伝道協会に影響力を行使できたという。

     信徒数に換算すると数千万人がいるわけで、反日感の強かったS・ホーンベック国務長官顧問を通じてハル国務長官に働きかけ、日中戦争に中立的立場を堅持していたF・ルーズベルト大統領をして中国支援へと舵を切らせる。

     世界を代表するシンクタンクでロックフェラー財団の支援を受けていた「太平洋問題調査会(IPR)」は、YMCAとの関係が深いことから必然的に「教会委員会」と連携して日本の侵略を批判する「調査シリーズ」を発刊・支援する。

     また、IPRはコミンテルン関係者が役員の雑誌『アメレジア』、「アメリカ中国人民友の会」、「アメリカ平和民主主義連盟」とも関係し、IPR理事長と「アメリカ委員会」理事長は兄弟でもある。

     極言すれば全米のキリスト教関係者とコミンテルン関係者によって動かされていた「アメリカ委員会」と「教会委員会」が一丸となって、南京での中国軍や市民の掠奪・放火なども「日本軍の悪行」に仕上げて世界に宣伝し、ルーズベルト大統領に反日を働きかけていた構図が浮かび上がってくる。

    おわりに:
    米国主導のプロパガンダが生んだ「大虐殺」

     こう見てくると、南京での大虐殺のプロパガンダは米国主導で捏造されたと言っても過言ではない。

     第1次世界大戦後は米欧がこぞって戦時中の悪行検証を求めたが、南京虐殺でっち上げが米国主導であったとすれば、米国から罪状検証の声が上がるはずもなかったのだ。

     2015年10月10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、中国が申請した「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録した。しかし、外務省が翌年2月に検証を進めようとすると、中国側が態度を急変させ、登録資料の真贋性を検証できなかったという。

     2017年12月14日に装いも新たに再開した南京の記念館からは「南京大虐殺」を掘り起こした功績を称えられた本多氏、そして世界に広めたチャンの写真や著著をはじめ、南京事件関連の資料が大幅に撤去され、そのスペースには新たに慰安婦コーナーが設けられたという。

     国家哀悼日に指定してまで反日ナショナリズムを高めようとした南京事件である。宣伝戦で構築されてきた「大虐殺」の巨像が、実は虚構で積み上げられた「虚像」でしかなかったことが習近平主席の失態(英女王にウソの友情物語を語る)で暴露された結果であろう。

     本多氏が「万人坑」のルポ報道をすると、現地で働いた関係者から「作り話」だと異論が出る。

     関係者1000人にアンケートを行い、469人から得た回答を精査して「万人坑はなかった」ことを確信し、報道から約20年後の平成3年朝日新聞社に取り消しを申し込む。

     朝日は「さらに調査を進める必要があると以前から考えています。(中略)共同で調査出来れば幸いと存じます」「本多は(中略)こんどは『旅』ではなく、改めて精密な現地取材をすることを考えております」などと書面で回答したという。

     産経紙がこの件で朝日の広報部と本多氏に質すと、朝日は「古い話であり、現時点では回答できることはありません」とし、本多は「回答しなかった」という。

     南京事件の罪状で刑死者も出た。ことは日本の、そして旧軍の名誉に関わる問題でもある。

    「古い話」であっても、報道した新聞社として疑義が呈され、現地取材などを考えていると回答した以上は、約束を果すのが最低限の責務であろう。

     そして、ウソと判明した暁には朝日の報道がきっかけになったと思われる記念館の撤去を迫り、亡霊を駆逐することが必要である。放置して済まされることではない。

    [もっと知りたい!続けてお読みください →]  感染源を米軍人だと言い出した中国の深謀遠慮

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    2019年12月13日、「南京事件」から82年の記念式典。「南京大虐殺」という嘘が大きく掲げられている(写真:新華社/アフロ)

    戦後も日本人の誇りを失いさせる為に、学校教育教育にも相当アメリカ式を取り入れたようです。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    南京事件(なんきんじけん)は、1937年(昭和12年)12月の南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行[要検証 – ノート]を行ったとされる事件
    107キロバイト (15,757 語) - 2020年4月15日 (水) 23:08



    (出典 www.honeiji.jp)


    世界は陰謀で満ちている。そう言わざる負えない

    <このニュースへのネットの反応>

    【数々の日本人を否定するアメリカの陰謀!あの「南京事件」でさえも。】の続きを読む


    第2次世界大戦初期のイギリスは欧州から追い出され、ついに本土での防空戦をすることになります。「スピットファイア」や「ハリケーン」がひっきりなしに飛び立つなか、旋回機銃が主武装というひときわ奇妙な戦闘機がありました。

    単発戦闘機なのに前方に武装を持たない野心作「デファイアント」

    1940(昭和15)年7月、ヨーロッパ大陸から撤退し、本土をドイツ軍の爆撃にさらされたイギリス軍は、その空軍力を結集してドイツ空軍やイタリア空軍を相手に防空戦、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」を繰り広げます。

    この戦いには、当時のイギリス戦闘機の代表格ともいえる「スピットファイア」や「ハリケーン」のほかにも、旧式機や従来の戦闘機とは別のアプローチで開発された戦闘機などが配備されました。

    その代表格といえるのがボールトンポール「デファイアント」という戦闘機で、前方に固定機銃を一切持たず、攻撃手段が機体上部の多連装旋回銃塔という、「旋回機銃単発戦闘機」と呼ばれる異色の機体です。

    当時の単発戦闘機というのは、一般的には昼間の戦闘を想定して生産されていて、乗るのはパイロットひとりで、機銃などの武器使用もパイロットが行っていました。しかし、「デファイアント」はパイロットと旋回機銃を操作する射手の2名が乗る単発戦闘機という珍しいものでした。

    「デファイアント」は英語で「挑戦的な」という意味を持っていますが、この戦闘機は、その名前の通りイギリス軍が、第2次世界大戦前に考えていた“独自の”空戦理論を基に作られた挑戦的な機体でした。

    画期的な戦闘機になるはずの「デファイアント」 まさかの低性能

    1930年代の戦間期、イギリス空軍は、戦闘機がそれまでの複葉機などから徐々に低翼単葉機の時代に入るにつれ、戦闘機そのものの速度が上がっていったことから、そのうちパイロットが機銃の射撃を担当するのは困難になる場面が出てくるのではと予想しました。そこで思いついたまったく新しい空戦理論が、戦闘機に旋回銃座を搭載することで、パイロットと射撃担当をわけるというものでした。

    これにより、速度が上昇し複雑な操作が増えたパイロットは操縦に専念でき、射手は前方固定火器よりも広い射角を持つ旋回銃座を使用することで、攻撃・防御両方で戦闘を優位に進められるだろうと、当時のイギリス空軍は考えたようです。

    実は、第1次世界大戦イギリスはすでに、ブリストル F.2「ファイター」という旋回機銃付きでふたり乗りの戦闘機を運用しており、その機体も「デファイアント」のコンセプトに大きな影響を与えたといわれています。

    ところが、ブリストル F.2「ファイター」は前方にも機関銃が装備されていました。同機を参考にしたならば、なぜ「デファイアント」では前方機銃を廃止したのか謎ですマッハ越えのジェット戦闘機運用が開始された直後の時代のように、速度が高くなるとそもそもドッグファイトそのものが発生しないと予想したのでしょうか。

    ともあれ、その画期的な空戦理論を基にした戦闘機「デファイアント」は、1937(昭和12)年8月に初飛行しますが、いざ飛ばしてみると、普通の単座機より鈍重で満足な運動性能が発揮できないことが判明します。

    さらに、期待されていた旋回銃座も7.7mm機銃を4門備え、1か所に火力を集中できることはよかったのですが、自機の垂直尾翼やコックピット、プロペラなどへの誤射を避けるため、自動的に射撃がストップする角度が設けられており、理論通りの広い射角を得られませんでした。

    「デファイアント」の戦果は「ハリケーン」に誤認されたおかげ…?

    配備前から懐疑的な面が多かったものの、1939(昭和14)年12月から軍で運用を開始した「デファイアント」は、1940年5月末に始まったダンケルク撤退戦などで、ドイツ軍爆撃機ハインケル He111急降下爆撃機のJu87スツーカ」といった撃墜実績をあげました。

    しかし、肝心のメッサーシュミットBf109など戦闘機相手では、一方的に撃墜されることが多く、配備直後から早くも2線級の機体という位置づけになってしまいます。

    それでも、第2次世界大戦におけるイギリス最大のピンチとなったバトル・オブ・ブリテンでは、戦える戦闘機は全て参加するという切羽詰まった状態だったため、本来の役目である昼間戦闘機として駆り出されます。この戦いにおいてかなりの損害を被り、本土での空戦がひと段落するころには、「デファイアント」は完全に昼間戦闘機としての役目から外されます。

    その後「デファイアント」は、夜間戦闘機としての運用も模索されましたが、本格的な夜間戦闘機が登場すると、その役割も終えることになります。なお、ダンケルクからの撤退戦やバトル・オブ・ブリテンでは、戦闘機相手でもそれなりに戦果を挙げたとされていますが、その多くが、「デファイアント」を「ハリケーン」と誤認したドイツ軍機が後ろに回って逆襲されたものといわれています。そのようなミスを招いたのは、「デファイアント」が「ハリケーン」と同じエンジンを使っていたのが一因とも。

    ちなみにイギリス海軍も、ブラックバーンロック」という同じようなコンセプト戦闘機を生産・配備しました。こちらは艦載機として、機銃掃射と急降下爆撃を実施した記録が残されていますが、結局、画期的な空戦論を体現したはずの「旋回機銃単発戦闘機」という機種は、後に後継機が続くことはありませんでした。

    しかし、ジェット戦闘機では一時期、パイロットひとりだけでは対応しきれないということで、レーダーや火器管制の担当者が同乗する複座戦闘機が多かった時代もありました。実はイギリス空軍の発想は、時期がものすごく早かっただけで、それほど間違いではなかったのかもしれません。

    1940年8月、「バトル・オブ・ブリテン」に臨むイギリス空軍の「デファイアント」戦闘機(画像:帝国戦争博物館/IWM)。

    時代の流れと共に、武装なども変わっていくようなものです。
    日本軍も、戦争で生き残るために、他国に引けを取らない戦闘機などを開発したと言われています。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    ボールトンポール デファイアント (Boulton Paul Defiant) は第二次世界大戦前にイギリスで開発された、ボールトンポール社製の単発レシプロ複座戦闘機である。 前方固定機銃を一切持たず、武装は機体上部の多連装旋回銃塔のみという異色の戦闘機として知られる。 デファイアント
    13キロバイト (2,291 語) - 2018年3月24日 (土) 14:18



    (出典 www.imgmsplus.com)


    日本もいろんな戦闘機を作って志向錯誤した結果ゼロ戦が出来た。
    イギリスも、戦果に期待してこのような戦闘機を生み出したのだろう。

    <このニュースへのネットの反応>

    【果たして戦果は?前方に武装を持たない(英)戦闘機「デファイアント」】の続きを読む


    Image: Alfred-Wegener-Institut/J. McKay|白亜紀の南極にジャングルが…の想像図。

    南極がジャングルなら、日本はどうだったんだろ。

    今から1億4500万年~6600万年前、地球は「白亜紀」と呼ばれる時代でした。ティラノサウルスとかプテラノドンとか出てくる頃ですね。実は先日、この時代の胞子や根が発掘されました。研究チームが解析したところ、なんと白亜紀には南極点から1,000kmも離れていない場所がうっそうとしたジャングルだったことがわかったんです!

    南極大陸を掘りまくった結果9000万年前の花粉と胞子を発見

    昔々、地球の大気は今よりも二酸化炭素濃度が数倍高かったそうで、白亜紀の地球もいわゆる温暖期でした。しかしこれまで、「地球温暖期の南極はどうだったのか」を示す科学的記録は、一切ありませんでした。そこで近年、南極大陸の地下を掘るという壮大なプロジェクトが決行されたのです。

    掘って、掘って、掘りまくった結果、南極点からわずか900kmほどの地点で、9000万年前の花粉と胞子が見つかりました。これ、実はすごいことなんです。現在、南極点から1万4000km離れた昭和基地で観測した年間平均気温はマイナス10度。植物生息は、むずかしいですよね。しかし、掘り出された化石を分析したところ、当時は数十種もの植物が生息していたことが明らかになったのです。

    どうやって掘り進んだのか?

    この研究の筆頭表著者で、アルフレッドウェゲナー極地海洋研究所のヨハン・クラーゲス氏は米Gizmodoのインタビューに対し、「我々は特別な海底掘削装置を使って作業を行ないました。南極西部にあるアムンセン海のこの層にまで入り込むことができたのは初めてです」と語りました。

    「古い層で、白亜紀にまでさかのぼる可能性があることはわかっていたのですが、そこで何が見つかるかは、未知数でした。ですから、その中身を最初に知ったときには、かなり驚きました」

    研究チーム2017年、研究用砕氷船ポーラーシュテルンに乗って、南極大陸西部の南緯73.54度にあるアムンゼン海のトラフへと向かいました。このあたりは古い堆積物(地層的なもの)が氷河でカチコチに固められているため、なかなか内部に潜入することができませんでした。そこで役立ったのが、海底掘削装置MARUM- MeBo70です。

    MARUM- MeBo70はポータブル式の遠隔操作式の掘削リグで、海底で最大80mまで掘りすすめることが可能。とはいえ、掘削を妨げる氷山がないかどうか衛星画像やリグ搭載のヘリコプターで周辺地域を確認しながらの作業は難航が予想され、数日に及ぶ可能性もあったとか。しかし幸運なことに、海底を30メートルほど掘ったところで、お宝と遭遇することになったのです。

    お宝のあった場所は沈んだ大陸

    ドリルで掘り当てた堆積物のサンプルをCTスキャンなどで分析したところ、少なくとも62種類もの植物の花粉や胞子、それに化石化した根っこが確認されました。先日、科学誌ネイチャーで発表された論文によると、この中には現在の南半球に生息する針葉樹とシダが含まれていました

    今回掘削が行われたのは南極西部の海でしたが、地殻活動を分析したところ、かつてこの地殻は南極点にさらに近い南緯82度に存在し、現在は海底に沈んでしまったジーランディア大陸の一部だったとわかったのです。そして発掘された堆積物と化石は、はるか9000万年前のものだということも明らかになりました。

    南極点から900kmのところにジャングルがあった

    つまり、この研究によって、白亜紀には南極点から約900kmの地点に温帯雨林があったことがわかったのです。この温帯雨林とは、現在ニュージーランドの一部やアメリカ太平洋岸北西部にある温暖で多雨な針葉樹林と同じように、温暖で雨の多いジャングル。クラーゲス氏は、「このような緯度で、驚くほどの多様性が発見されました」と述べました。

    次に、彼ら研究チームは、これらの植物が生きていくのに必要な気候モデルを検証してみました。すると、年平均気温が13℃と、現在のシアトルと同様の気候や環境が必要だと算定されたのです。

    たとえば南極近辺でこの気温を4カ月維持しようとすれば、地球の大気中に相当な濃度の二酸化炭素がなければ不可能。おそらく、当時の1,120ppmから1,680ppmは必要だったでしょう。ちなみに、現在大気中の二酸化炭素濃度は約415ppmです。

    2100年までに南極の氷がなくなるかも?

    この論文をレビューした、シドニー大学のディートマー・ミュラー地球物理学教授は、「これは非常に説得力がある(研究)だ」と米Gizmodoに語っています。彼いわく、この論文の最もエキサイティングな点は、はじめて「白亜紀の南極には、氷が存在しなかった」と暗示したこと。

    その一方でミュラー教授は「もし今後も人間が制限なくCO2を大気中に送り続ければ、地球は再び同じ状況に陥るかもしれない」と警告もしています。

    ある予測モデルでは、このままいくと2100年までに大気中のCO2濃度が1,000 ppmにまで増加する恐れがあると試算されています。ミュラー教授は、「そうなれば南極の氷はすべて溶け、この惑星は数百万年もの間、温室状態になるかもしれない」と話しています。

    クラーゲス氏は米Gizmodoに対し、「はるか南に温帯雨林があったとすると、いったい白亜紀の地球はどんな気候だったのか…。チームとして引き続き解明していきたい」と決意を語りました。



    実際に、南極にジャングルがあったのかもわかりませんが、実際にあったのであれば
    証明できるのかもしれません。それと大昔、人工的に持ってこられたものなのかもしれませんね。謎は深まるばかり。


    (出典 news.nicovideo.jp)


    (出典 www.aero.co.jp)


    地球のサイクルとしては不思議です。
    しかし温暖化が騒がれる現代、今よりももっと暑かったなんて考えられない!

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    【(発見)地球は以前は今より暖かった。南極には実はジャングルがあった!?】の続きを読む


    四月八日は「灌仏会(かんぶつえ)」。仏教の開祖・釈迦の誕生日(降誕会 ごうたんえ)とされ、各地の寺ではさまざまな花で飾った「花御堂」を置き、花御堂の水盤(灌仏桶)に甘茶(アマチャの乾葉を煮出したもの)を張って、中央に据えられた生まれたてのお釈迦様をかたどった小さな像に柄杓(ひしゃく)で甘茶を注ぎかけます。仏教伝来とほぼ同じ時代の飛鳥・奈良時代から、「仏生会」として行われ、やがて庶民のお祭り「花祭り」へと変化しました。

    和やかで明るい花祭りの中心・花御堂

    和やかで明るい花祭りの中心・花御堂


    小さな花御堂にこめられた壮大な神話

    主に東南アジア地域に伝播した南伝仏教(小乗仏教・上座部仏教)では、釈迦の誕生・成道(大覚・悟り)・入滅の三つの出来事はすべてインド暦第二番目の月ヴァイシャーカの満月の日に起きたとされ、これをウェーサーカ祭りとして盛大に祝いました。現代でも、東南アジアから中央アジアの各国では、グレゴリオ暦で五月ごろにあたる五月中ごろに盛大に祭りが行われます。一方中国で発展した北伝仏教(大乗仏教)では、中国暦四月の八日が釈迦の誕生日とされたため、旧暦四月八日が「灌仏会」の日となりました。
    ミニチュアの四阿(あずまや)形状の花御堂は、屋根全体、周囲や柱に花が埋め尽くされるように飾られ、釈迦の生まれたルンビニーの花園のさまをあらわしています。花御堂の内側には水盆(灌仏桶)が据えられます。水盆には甘茶が満たされ、その真ん中には北伝仏教(大乗仏教)の経典『方広大荘厳経』(ललितविस्तर、Lalitavistara)での記述、生まれてすぐに立ち上がり、四方に七歩ずつ歩いて「天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之」と唱えたという伝説に基づき、すっくと立って右片手を天に、左手を地に向けて指を指している誕生仏の小像が置かれ、信者・参拝者たちは甘茶を柄杓ですくい、誕生仏に注いでその誕生を祝います。
    仏教行事は概して荘厳で重々しく、施餓鬼供養や盂蘭盆会などちょっと怖めのものが多いのですが、この花祭りに関しては、なんともかわいらしく明るい行事です。稚児行列や舞踊、摩耶夫人の釈迦懐妊の夢に現れた六牙の白い象の人形なども登場して、楽しい雰囲気に満ちています。
    甘茶を誕生仏に注ぐのは、西暦1~2世紀ごろのインドの仏教詩人で僧侶のアシュバゴーシャ(Aśvaghosa 馬鳴/めみょう)の釈迦伝記叙事詩『ブッダチャリタ』(बुद्धचरित、Buddhacarita 漢訳・仏所行讃 日本語訳・仏陀の生涯)の詩句に由来し、それを模したもので、法華経にも登場する釈迦如来の眷属で龍族の八大龍王(はちだいりゅうおう/難陀・跋難陀・沙伽羅・和修吉・徳叉迦・阿耨達・摩那斯・優鉢羅の八体の龍の王)が天界の飲料・ソーマ(सोम、soma)の雨を灌(そそ)いで祝福したという伝説をもとに、釈迦の降誕の日に釈迦の童形像を飾り、楽を奏し、香華を焚き、香水で沐浴灌水するという「灌仏の式」が行われるようになりました。それが、後に中国や日本にも伝わったものです。日本では宮中行事として、インドや中国に倣い、灌仏には五種の香水(五香水または五色水)を用いました。承和七(840)年には、清涼殿で仏像に香水を灌ぐ儀式が行われています。
    この灌仏会が「花祭り」となったのは比較的最近の明治34(1901)年と、近代に入ってからのこと。浄土真宗の僧侶・安藤嶺丸が新暦四月八日を「花祭り」と称して、現代の花祭りと同じようなコンセプトの子供たちのお祭りとし、これが次第に普及していったものです。

    ルンビニーの花園で誕生した釈迦の姿を模しています

    ルンビニーの花園で誕生した釈迦の姿を模しています


    アジア全域に灌仏会はあれど…日本では貴重な甘茶をかけた

    花祭りで、五香水の代わりに甘茶が用いられるようになったのは、江戸時代ごろから。落葉低木アマチャ(Hydrangea macrophylla var.thunbergii)はアジサイアジサイ属で、変わった名前がついているものの、学名からお分かりになるかもしれませんが、分類学上はヤマアジサイの変種(亜種)になります。
    花はヤマアジサイとそっくりの散房花序で、全体の姿もほぼヤマアジサイと変わりません。中世ごろにその甘味変種が発見され、栽培されるようになったようで、生薬としても使われました。
    別種のアマチャヅルが元祖甘茶として『多識編』(1612年)に登場するのに遅れること約半世紀、『花壇地錦抄』(伊藤伊兵衛 1695年)に、「甘茶、花形あぢさいのちさき物なり。葉をあまちやにするに、むして細末して用う」とあるのがほぼ文献初出で、『本草綱目啓蒙』(1803年)では、山城国(京都)宇治で栽培され、四月灌仏会に供するとあり、現代の花祭りの風習がこの頃には確立したことが分かっています。
    甘茶はアマチャの夏葉を取って作りますが、そのままでは甘くはなく苦味しかありません。葉を水洗いして数日間日干しにします。さらにこの葉に霧をふきかけて湿らせ、むしろで覆って蒸して発酵させ、これを手で揉んでから再度乾燥させます。
    この過程で苦味成分のグルコフィロウルシンがフィロズルシンへと変化し、甘くなるのです。フィロズルシンは砂糖の約1000倍の甘さを持つため、砂糖が貴重だった時代には、甘茶は甘味成分として使われていました。現代では、人体に吸収されないため、糖尿病の食事療法にも用いられます。
    伊豆天城地方付近には、ヤマアジサイのアマギアマチャがわずかに自生しています。調製発酵しても栽培種のアマチャほどは甘くはないのですが、やはり甘くなります。このため「甘木」とも呼ばれています。天城→甘木、と名称的には、どことなく後づけに思えなくもありませんが、このように野生種の中にたまたま葉が甘くなるアジサイの変種株が見出され、それがアマチャの原種となった、という過程を示唆してもいます。
    全国のアマチャは、遺伝子的に一つの親株から生まれたものだ、という研究結果も出ています。日本特産の生薬の由来が、今後判明するときが来るかもしれません。

    ヤマアジサイの変種・アマチャ

    ヤマアジサイの変種・アマチャ


    今や知る人も少ない卯月八日の神事。花祭りと深いかかわりがありました

    仏教が次第に庶民の生活・習俗に浸透していくと、初夏の時期に行われる稲田に山の神を導く民間信仰行事、「お山始め」「神の日」「春山入り」と花祭りが時期的に近かったため、やがて「卯月八日」へと変化習合されていきました。
    花祭りには今でも甘茶で墨を磨って「ちはやぶる卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする」と書写して、門口や柱に貼り付け、虫除け・虫封じの護符とするという農事的な風習も知られています。
    早春のころから、田打ち・代かき・畝作り・種付け…と田植えへの準備を入念に行ってきた農村では、いよいよ丹精込めた苗を田に植えつけるのに先立ち、山の神を田へと導くための特別な祭礼を設けました。
    春山に登り、野の花を摘み、これを「天道花」と称して高い竿の先に飾り、神の依り代とし豊作を祈念しました。山の神は古い信仰で共同体の祖霊ともされましたので、祖霊を迎えるために、古くは共同体の中の女性たちが山で禊斎し、花を摘んで山から下りてきて、その山の霊力を担って田植えするという役割を託されました。
    時代が下って聖山に女性が入ることを忌む風習が生まれても、この卯月八日だけは特別でした。たとえば比叡山も明治初期まで女人禁制でしたが、その時代であっても、卯月八日には入山して花摘社に参拝することを許されていました。卯月八日には農事は一切禁止で、ひたすら祖霊である山の神に「田の神」として働いてもらうために歓待する日としたのです。
    卯月八日は、彼岸や盂蘭盆と並んで、日本古来の習俗信仰(太陽信仰)がその古いかたちを残しながら仏教行事と融合していった、興味深い事例といえるでしょう。

    東北の山岳信仰 岩崎敏夫 岩崎美術社
    薬草カラー図鑑 講談社
    花壇地錦抄

    日本の花祭りにあたるタイの寺院のウェーサーカ祭の灯明

    日本の花祭りにあたるタイの寺院のウェーサーカ祭の灯明

    花まつりと習合された卯月八日には日本古来の天道信仰が

    まつりと習合された卯月八日には日本古来の天道信仰が

    その日、天界からソーマの慈雨が降り注ぎ…4月8日は「花祭り」

    仏教の歴史は古いですね。このような行事を見てみると、日本は本当に文化
    豊かな国だと思うことができます。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われ、一般的には花祭・花祭り・花まつり(はなまつり)と呼ばれている。 釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦4月8日に生誕した伝承に基づいている。降誕会(ごうたん)、仏生会(ぶっしょう)、浴仏会(よくぶつえ
    12キロバイト (2,006 語) - 2019年8月3日 (土) 07:10



    (出典 blogimg.goo.ne.jp)


    改めて仏教の歴史を勉強してみると、面白いです。

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    【今日は釈迦の誕生日「灌仏会」に隠された花祭りと、壮大な神話とは?】の続きを読む


    man-3579185_640_e

     アフリカを闊歩していたヒト族の仲間は、ずいぶんと多彩な生活を送っていたのかもしれない。

     南アフリカで発掘された2種のヒト族の骨を調べたところ、2本足で歩いて生活していた種がいた一方で、相変わらず木の上で暮らす種もいたらしいことが判明したそうだ。

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    進化による変化とライフスタイルによる変化

     過去数百万年のほとんどの間、私たちの祖先は他のヒト族の仲間と共存してきた。彼らの多くはある部分ではよく似ていただろうが、もちろん大きな違いもあった。

     どのヒト族の化石にも、ヒトとしての特徴とどちらかというと類人猿的な特徴の両方が見受けられる。これらは環境とライフスタイルによって形作られたものだ。

     中には、どの種が私たちの直接の祖先で、どの種が親戚なのか完全にはっきりとしていないケースもある。こうした複雑さのおかげで、ヒト族が木からぶら下がるのをやめて歩き始めた正確な時期の特定は簡単ではない。

     それを突き止めるヒントは、さまざまな骨の大きさと形を知ることで得られる。たとえば、大腿骨の形状は、何世代にもわたって二足歩行に一番有利な特徴を選び続けてきた進化の産物だ。

     一方、一生のうちに送られたライフスタイルの産物もある。それは日々加わる負荷によって変化した骨の密度だ。高い負荷がかけられた部分ほど骨密度が高い。

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    nilky/iStock

    200万年以上前のヒト族の大腿骨


     ケント大学(イギリス)の古人類学者グループは、初期ヒト族2種の大腿骨の密度をCTスキャンで調べてみた。

     特に注目されたのは、骨盤に収まって股関節を形成する「大腿骨頭」の部分だ。ここは体重の大部分をそこから下の骨に分散させるところで、ここの骨密度が分かれば、その個体が歩いていたのか、それとも木登りをしていたのかを推測することができる。

     大腿骨の1本は、およそ218万年前に生きていた、おそらくは「パラントロプス・ロブストス」か初期の「ホモ属(ヒト属)」の仲間のものだ(どちらかかははっきりしない)。もう1本は、280万~200万年前の「アウストラロピテクス・アフリカヌス」のもの。

     両者が生きていた時代には数十万年の隔たりがあるが、生きていた場所は同じ、スタークフォンテイン洞窟(現在の南アフリカ)だ。

     形状を見る限りは、どちらも足で立って生活していたように思われる。どちらも私たちの骨によく似ており、大きな大腿骨頭と長い頸部、平たい顆部(膝関節を形成)を特徴としている。これはおそらく、ほとんどの時間を歩いて暮らしやすいよう進化したものだ。

     だからといって、彼らが日々歩いていたとは限らない。たとえば、私たち自身もほとんどの時間を歩くよう進化してきたが、実際に四六時中歩いている人は少ないだろう。むしろ、歩く時間よりも座っている時間の方が長いに違いない。

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    一方は現代人に、他方は類人猿に近い


     研究グループが立てた予想は、A. アフリカヌスの骨の内部構造は、現代人よりも現代の類人猿に近いというものだった。ところが意外にも、その280万~200万年前の大腿骨の密度は、現代人のそれと同じだった。

     逆に、正体がはっきりしない218万年前のヒト族については、骨の形状が示すように、ほとんどの時間を歩いていただろうと予測された。ところがその内部は、はるかに類人猿に近かったのだ。

    二本足で歩いた骨と木登りをした骨

    かなり最近まで、現生人類は幅広な股関節でもって、ほとんどの時間を立つか、歩くかして過ごしてきた。

     このため股関節には後ろから圧力が加わり、その結果として人間の大腿骨頭で一番密度が高いのは後ろ側となっている。中ほどから頸部にかけて、密度の高い柱で補強するような感じになっているのだ。

     他のほとんどの類人猿の場合、木の上で生活するために股関節が曲がっており、体重はさまざまな方向で支えられる。その結果、大腿骨頭で一番密度が高いところには、柱のペアが形成される。

     1本は木登りで股関節が曲がったときに一番負荷がかかる部分、もう1本は歩くときに股関節がほんの少しだけ曲がることで負荷がかかる部分だ。

     こうした密度の高い部分は、移動方法や生活環境に応じて、類人猿でも若干の違いがあり、ここから種を特定することまで可能だ。

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    同じように進化した骨を持ちながら、ライフスタイルは大きく異なる


     南アフリカの大腿骨は、どちらもほぼ同じ形で、私たちの骨とよく似ている。しかし進化よりも生活習慣によって形成される内部構造について言えば、218万年前に生きた種がはっきりしないヒト族の大腿骨は、現代人よりも類人猿に近い。

     この種について確かなことが分からず、それが系統樹のどこに位置するのかも定かではないため、これが意味するところをはっきりと述べるのは難しい。

     だが、ヒト族の中から二本足で生活する者が登場してから数十万年が経過してもなお、同じ場で多少なりとも木登りをしながら過ごしていた者がいたことも間違いない。

     この2つの種は、明らかに似たような生活を送れるよう進化しているのだが、実際にはまったく違うライフスタイルを選んでいた。私たちの初期の親類らは、肉体的にも行動的にも、これまで考えられていた以上にずっと多様なグループであるということらしい。

     この研究は『PNAS』(3月30日付)に掲載された。

    References:Long after some hominins were bipedal, others stuck to the trees | Ars Technica/ written by hiroching / edited by parumo

    全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52289456.html
     

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    ヒトが二足歩行を始めてからも、ずっと木の上で生活していた仲間がいた(英研究)

    人がこのように進化してきたと思うととても面白いです。
    これからますます研究が進み進んでいくとさらに新たな発見が出て来るかもしれませんね。


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    58キロバイト (9,211 語) - 2020年3月31日 (火) 00:54



    (出典 machiukezoo.biz)


    ダーウィンが言うように最も生き残る種は、変化に最も適応できる種かもしれない。

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