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    カテゴリ:社会 > 歴史


    2019年の魅力のある都道府県はどこ?ランキングにしてみた。

    確かに北海道は自然が豊かで人も良い印象ですね。

    NO.7881946 2019/10/17 19:08
    都道府県魅力度ランキング2019 1位は11年連続の北海道、茨城県は7年連続の最下位に
    都道府県魅力度ランキング2019 1位は11年連続の北海道、茨城県は7年連続の最下位に
     毎年、上位のみならず、下位争いにも大きな注目が集まる「都道府県魅力度ランキング」。その最新版である「都道府県魅力度ランキング2019」が10月17日、発表された。2018年まで6年連続で最下位となっていた茨城県は今年、何位になったのか。一方で、魅力度トップを争う都道府県に変動はあったのか。

     調査を行ったのは、民間調査会社のブランド総合研究所。このランキングは、47都道府県と国内1000の市区町村を対象に、認知度や魅力度、イメージなど全84項目からなる「地域ブランド調査2019」によるもので、今年で実施は14回目。全国の消費者3万1369人から有効回答を得た。

    ■1位は11年連続の北海道
    茨城県は7年連続の最下位に

     2019年の都道府県魅力度ランキング1位に選ばれたのは北海道で、11年連続のトップとなった。2位は京都、3位に東京が続き、5位神奈川県までは昨年と全く同じ順位だった。

     6位になったのは昨年7位の大阪府で、自己最高位となった。大阪府は、今年6月にG20が開催され、今年7月には「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録された。そして2025年には大阪万博が行われるなど、こうした大きなトピックが魅力度に好影響をもたらしたよう..



    【日時】2019年10月17日 12:00
    【ソース】ダイヤモンド編集部


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     6600万年前、白亜紀末の恐竜絶滅は、その理由が長年議論されてきたが、現在ではカリブ海におちた直径10kmほどの隕石(小惑星)が要因であったことが定説として受け入れられている。この共通認識を前提にして近年、この隕石衝突前後の生態系はどうなっていたのか、何が起きていたのか、その詳細について深掘りして研究されるようになってきた。

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     当時暮らしていた75%以上の生物種を絶滅に至らしめた隕石衝突。その前後は、時代区分としても白亜紀(中生代)と古第三紀(新生代)に分かれるが、巨大隕石が落ちた証拠である地層は「K/Pg境界」と呼ばれている。このK/Pg境界の地層には、地表にはほとんど存在しないはずのイリジウムという元素が急増すること、石英の結晶の中に物理的な衝撃が及ぼされた痕跡などが確認されている。

     このK/Pg境界付近の化石について調べることが、古生物学の世界でいま最もホットな研究のひとつとなっている。K/Pg境界の地層には、まさに恐竜たちが大量死して、屍が累々としているような化石があるのかもしれない。その化石の解析から、絶滅の詳細や恐竜なき時代の生物たちの進化の様子がより明らかになるだろう。

     6600万年前の大量絶滅の前後から分かることについて、国立科学博物館 標本資料センター・コレクションディレクターの真鍋真氏に聞いた。

    化石で分かる太古の環境

    ――K/Pg境界付近の化石について調べることで、どんなことが分かると期待されているのでしょうか?

    真鍋真氏(以下敬称略) 恐竜たちの一部は鳥となって現在も生きていますが、6600万年前に恐竜の大部分は滅びたわけです。6600万年前に恐竜の時代がどのようにして終わったのかを調べることは、環境の変化と生物の進化の関係を知ることにもつながります。

     鹿児島県にある甑島(こしきじま)の7000万年ほど前の地層から、カモノハシ竜(ハドロサウルス類)の化石を2018年に発掘しました。6600万年前の白亜紀最末期とはいえませんが、日本で発見されている恐竜の中では最も新しい、つまり最後の恐竜のひとつです。さらにK/Pg境界に近い地層に迫るべく、現在も調査を続けています。絶滅直前期のアジアにはどんな恐竜が闊歩していたのか、そこを知りたいという思いがあります。

     衝突の直前まで恐竜たちがどう変化(進化)していたのか、白亜紀より前のジュラ紀、三畳紀にわたる、恐竜の各グループごとの栄枯盛衰を知ることとはまた別の意味があります。

     例えば、隕石衝突前に角竜類とカモノハシ竜を含む鳥盤類の植物食恐竜は、種の多様性が減少し、衰退しかけていたという、エジンバラ大学などの研究などがあります。北米では、白亜紀末に大型植物食恐竜が衰退し始めていたため、生物多様性、生態系がやや脆弱になっており、そうした最悪のタイミングで隕石衝突が起き、大きな影響を受けたという説です。

    ――巨大なブラキオサウルスやディプロドクスなど多様な竜脚類たちが闊歩したのはジュラ紀後期ですが、白亜紀後期にはアラモサウルス1種ぐらいに減ってしまっていました。一方で、同じく巨大な竜脚類のアルゼンチノサウルスやパタゴティタンは、南米大陸で白亜紀後期まで栄えていました。地域(大陸)ごとに、種やグループの繁栄も違っていたということでしょうか?

    真鍋 北米大陸と南米大陸は当時、海で隔てられており、生態系も異なり、同じ竜脚類でも異なった進化が起こっていたのです。逆に、北米大陸とアジア大陸は「ベーリング陸橋」によってつながっていたので、東アジア起源の角竜類が北米大陸に渡って、そこでトリケラトプスなどのようにフリル(襟飾り)や角を大きくし、北米で多様な進化をとげたりしています。

     他に恐竜ではありませんが、海ではジュラ紀に栄華を誇ったイクチオサウルスなどの魚竜が、白亜紀の中ごろ(約9000万年前)には絶滅しています。別の海生爬虫類のモササウルスなどに捕食者としての地位を取って代わられたわけですが、原因として海中の貧酸素状態が広がる「海中無酸素事変」が何度か起きたことも魚竜の衰退に影響したとも考えられます。

     白亜紀の空では、鳥類が増えるにつれて、翼竜は大型化し、海洋など、より長距離を飛ぶ必要がある場所で生きるなど、棲み分けが進んでいたようです。

    隕石衝突から生き延びた生物

    ――そんな中、6600万年前の隕石衝突、K/Pg境界を越えることができた生物、できなかった生物の間にはどんな違いがあったのでしょうか? 恐竜、海生爬虫類アンモナイト、翼竜などは越えられなかった(絶滅した)わけですが、そこで大型化ということはどんな意味をもったのでしょうか?

    真鍋 白亜紀末の生態系の中で、恐竜は確かに大型化しているものが多くいました。生物が大型化するということは、一個体あたりの食べる量が増えるため、生態系の中でそれだけ生きられる個体数が減るということです。

     そんな中、隕石衝突によって環境が劇的に変わりました。隕石と海底の岩石の破片は水蒸気と一緒に巻き上げられて大気圏に層をつくり、地表に届く太陽光線は大きく遮られ、地上では28℃、海で11℃も温度が低下したという研究があります。植物が十分に光合成できない期間は2年に及んだようです。

     こうした厳しい環境下で、大型種の絶滅リスクが顕在化したのだと思います。明暗を分けた第一は、体のサイズだったでしょう。

     また、恐竜は変温動物から恒温動物化していたともされますが、自らの体温を一定に保つ恒温動物が生きるためには、変温動物よりも約4倍以上のエネルギーが必要とされます。気温が急激に低下し、植物が極端に減った地球で、植物食恐竜は食べるものを失い、肉食恐竜も捕食対象をなくし、多くの恐竜は比較的短い期間で絶滅していったようです。

     同じ恒温動物でも、鳥類と哺乳類はK/Pg境界を越えられました。それは共に、小さいサイズであったことが幸いしたと考えられます。生態系に恐竜や他の爬虫類がいたため、哺乳類は白亜紀まで大型化できませんでした。哺乳類は、当時最大のものでも全長が1mくらいで、小さな体サイズのため、少ない食べものでもやり過ごせ、サバイバル率を高めたのでしょう。

    ――6600万年前の大量絶滅を生き残った生物たちは、その後どのように生態系を回復させていったのでしょうか?

    真鍋 従来、大量絶滅の前と同じ程度に生態系が回復するには、数百万年から1000万年くらいかかるのではないかといわれていました。しかし、恐竜のいなくなった新生代の古第三紀の哺乳類は、最初のうちは雑食性の小さなものばかりでしたが、最初の100万年以内の間に急速に多様化し、大型の哺乳類も出現していきました。

     私たちにつながる霊長類も、トレホニアという子イヌ大の最古の霊長類が衝突から300万年後には現れており、恐竜がいなくなった生態系ですみやかに多様化していったと、いまでは考えられています。新生代は「哺乳類の時代」とも呼ばれますが、恐竜のいなくなった地位を埋めるように、哺乳類の台頭はかつて考えられていたより急速に起こっていたのです。

     恐竜が生きた中生代という舞台では、哺乳類は恐竜たちに食べられる弱い存在でしたが、K/Pg境界よりすぐ上の(新しい)地層では、今度は哺乳類がワニなどの爬虫類を食べるようになるという生態系における地位の逆転が起きていたようです。

    「第6の大量絶滅」に備えて

    ――先生が監修している「恐竜博2019」でも、最後に「絶滅の境界を歩いて渡る」という形でK/Pg境界を意識させる展示方法となっていました。その中で、K/Pg境界を越えたカメの記述が興味深かったです。

    真鍋 白亜紀最末期の北米では、陸生、河川生、湖沼生など、カメ類の多様性が高くなっていました。他の脊椎動物と比べると、カメ類はK/Pg境界での大量絶滅ではごく一部しか絶滅しませんでした。K/Pg境界で生き残ったカメ類の中で最大のものは、スッポン類で140kgもの体重があったとされます。

     こうして古生代末、ジュラ紀末、K/Pg境界の大量絶滅を生き抜いてきたカメ類でしたが、現代では大変な危機に瀕しています。西暦1900年以降、約350種のうち3%が絶滅、9%が絶滅寸前種、18%が絶滅危惧種リストアップされています。3度の大量絶滅を乗り越え、ものともしなかったカメが、いまは非常に受難の時代を迎えています。

     こうした記述から、現代が「第6回目の大量絶滅期」にあるという問題意識を少しでも持ってもらえたらと考えています。1500年以降、陸生の脊椎動物だけで338種が絶滅しており、加えて279種が野生では絶滅しているか、すでに絶滅している可能性が高いとされています。

     この第6回目の大量絶滅を引き起こしている主役は、私たちヒト、ホモ・サピエンスに他なりません。それだけ人間が与える環境変化が、ある種の閾値を超えてしまっているとも考えられます。

    ――6600万年前の直近の大量絶滅、および現在も密かに進行しつつある「第6の大量絶滅」を照らし合わせて、私たちが考えられることとは何でしょうか?

    真鍋 6600万年前の大量絶滅は、巨大隕石(小惑星)衝突が、文字通り大きなインパクトを生態系に与えたわけですが、現代では77億人まで増えた人類の多さと、そのことが地球に与える環境変化が生態系にとって同じように、大きなインパクトを及ぼしています。

     生物多様性が失われ、脆弱になっていくということは、人類が今後生き延びるかどうかにかかわらず、もし万が一、今後何らかの環境変化があったときに、生物がサバイバルできる可能性を確実に狭めていってしまいます。

    恐竜の世界史』(みすず書房)の著者、スティーブ・ブルサッテが次のように書いています。

    「恐竜がかつて収まっていたその座に、今では私たち人類が座っている。自らの活動のせいで地球がみるみる変わりつつあるのに、自然界での自分たちの地位は安泰だと思い込んでいる。だから私は不安で仕方がない。(中略)恐竜に起きたことは、私たちにも起こりうるのではないか、と」

     まさにこうした意識を持ってもらい、SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の14条、15条にもあるような「海や陸の豊かさを守ろう」などの内容が少しでも実践されていくことを願っています。

    [もっと知りたい!続けてお読みください →]  なぜ恐竜は絶滅した?答えは素粒子物理学に

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    6600万年前、恐竜の時代の終焉を招いた隕石の衝突。生物の世界はどう変わったのか。(画像はイメージ)

    まさに地球の歴史は深い!隕石の他にも洪水もあったらしく、何回ぐらいほろびているのだろうか?


    (出典 news.nicovideo.jp)

    類など)。代わってジュラ紀にはあまり目立たなかった系統の恐竜が新たな進化を遂げ、放散することになる。白亜紀後期の恐竜及び翼竜の代表的な種は、ティラノサウルス、トリケラトプス、プテラノドンなどが知られる。しかし白亜紀末期に他の多くの生物と共に恐竜は衰退し、最終的に現生鳥類を除いて絶滅する(後述)。また
    14キロバイト (1,968 語) - 2019年8月15日 (木) 10:43



    (出典 storage.tenki.jp)


    仮説では隕石落下で絶滅したとありますけど、他にもいろんな仮説がありますね。

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    【古代の生物「恐竜」6600万年の隕石落下後に何が?地層は語る!】の続きを読む


    日本海軍の空母「赤城」は「航空母艦」なるもののスタイルが確立されていくまさにその過程にあった艦であり、大いに試行錯誤がなされました。当初はその象徴たる三段構えの飛行甲板のほか、実は重巡洋艦並みの主砲も搭載していました。

    初めての大型空母は三段構えの飛行甲板!

    昭和初期、旧日本海軍の空母「赤城」は、戦艦「長門」と国民人気を二分していたといいます。しかし、当時の国民が思い描く姿かたちと現代の我々が知るそれとでは、少々異なるかもしれません。

    「赤城」は1920(大正9)年12月6日に、天城型巡洋戦艦2番艦として起工されています。ところが建造途中で締結された「ワシントン海軍軍縮条約」により戦艦などの保有数が制限されたため、巡洋戦艦としての建造は中止となり、空母に改装されることになります。軍縮条約でも、戦艦は廃棄させても空母への改装は認めるなど、空母は重視されていなかったことがうかがえます。当時、海戦の主役はあくまで戦艦同士の砲撃戦で、空母は搭載した戦闘機で敵の砲撃観測機を追い払う程度の補助艦扱いでした。

    日本海軍は空母「鳳翔」を建造していましたが、大型空母は「赤城」が初めてで、どういう形がよいのかも分かりませんでした。そこで“師匠”であるイギリス海軍の「フューリアス」を手本にします。こちらも元は戦艦で空母に改装された艦です。

    改装工事は1923(大正12)年11月9日から開始され、1927(昭和2)年3月25日に竣工します。このときの飛行甲板は独特の三段式(フューリアスは二段式)という、現代では見られない形式でした。最上段の甲板は着艦と攻撃機など大型機の発艦用、中段も当初飛行甲板にする予定でしたが、艦橋と20cm連装砲塔が2基設置され飛行甲板としては使われません。下段が戦闘機など小型機の発艦専用でした。当時の航空機は小型軽量で滑走距離が短くても発艦することが可能でしたので、飛行甲板を増やせば効率よく発艦させられると考えられました。

    中段の連装砲塔以外に後部両舷にも単装砲3門ずつ、合計10門も20cm砲を装備し、その火力は重巡洋艦並みで砲戦にも参加させるつもりだったようです。

    続く試行錯誤、航空機の劇的進化も後押し

    竣工した「赤城」の独特の艦影はインパクトがあり、冒頭で述べたように当時、日本海軍シンボルとして戦艦「長門」と人気を二分したといいます。しかし燃焼缶の交換や着艦装置の変更など、毎年のように大小の改装を繰り返し、空母黎明期の試行錯誤の苦しみは続きます。

    実際に使ってみると三段式甲板はあまり効果がなく、大型化する航空機に対して短い甲板が問題になることは確実でした。そこで長い飛行甲板がとれる全通(艦首から艦尾までさえぎるものがないこと)一段式にする大改装が、1935(昭和10)年11月から開始され1938(昭和13)年8月31日に完成します。

    「赤城」就役時に搭載したのは1924(大正13)年に制式化された一三式艦上攻撃機で、全備重量2900kg、エンジンは450馬力という布張り複葉機でしたが、1937(昭和11)年には全備重量3800kg、エンジン970馬力、全金属製単葉の九七式艦上攻撃機が登場するなど急速に大型化しており、「赤城」の改装も何とか間に合ったといえます。

    この頃になると日中戦争が勃発して情報統制が厳しくなり、この大改装後の姿はほとんど公表されず、当時国民のあいだでは、「赤城」といえば三段空母というイメージがまだ定着していたようです。

    1941(昭和16)年12月8日に「赤城」も参加して実施された「真珠湾攻撃」は、海戦の主役が航空機に移った転換点のように言われますが、当時はまだ航空機が戦艦を葬れるのかどうか、世界中の誰ひとり確信は持てていませんでした。

    「赤城」は竣工時20cm砲を10門も搭載しましたが、対空火器は45口径12cm連装高角砲6基12門と、留式7.7mm機銃2挺だけでした。全通一段式に改装後も両舷の20cm単装砲は残され、25mm連装機銃14基28門が増設されただけ。真珠湾攻撃に参加した空母の中でも対空火力は一番貧弱という体で、まだ航空機への確信の無さがうかがえます。ちなみに20cm砲は、実戦ではまったく役に立ちませんでした。

    そして海戦の主役へ…その陰で

    航空機優位」を確立したのが、真珠湾攻撃2日後の12月10日に起きた「マレー沖海戦」です。日本海軍の陸上基地航空隊イギリス東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦レパルス」を攻撃し、航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の海戦となりました。

    こうして空母が海戦の主役となる時代が幕を開け、「赤城」は東奔西走することになりますが、国民からの人気とは裏腹に、戦艦からの無理やり改造の連続で雑な造り、艦内は迷路の様で使い勝手も居住性も悪く、乗組員の評判も悪いものでした。

    艦長以下幹部は「軍艦はお化粧よりも戦いが先だ」との考えで、いわゆる4S(整理、整頓、清掃、清潔)はおろそかにされ、艦内は雑然として汚かったとか。「強運艦」と呼ばれた駆逐艦「雪風」とは真逆の環境で、艦の「空気感」は良いものではなかったようです。

    1942(昭和17)年6月5日の「ミッドウェー海戦」で爆弾2発を被弾し、火災が発生しますが消火できません。沈没こそしませんでしたが、焼け焦げて動けない巨大艦はどうすることもできず、翌6日に第四駆逐隊(「嵐」「野分」「萩風」「舞風」)の魚雷によって処分されました。

    こうして元戦艦だった「赤城」はたった2発の爆弾で失われます。日本の艦船はダメージコントロール能力が低く、大型艦でも少ない被弾で失われる例がよく見られます。この戦訓から日本海軍ダメージコントロール能力にも目を向けるようになりますが、どこまで実現できたかは別問題です。

    建造から実戦まで、日本空母の先駆けとして紆余曲折を経た「赤城」は、戦艦「長門」と並ぶ人気艦でしたが、緒戦で失われてしまいます。良くも悪くも日本海軍を象徴する艦であることは間違いありません。

    1941(昭和16)年に撮影された旧日本海軍の空母「赤城」。改装後の全通飛行甲板前方に3機の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が並んでいる(画像:アメリカ海軍)。

    今の時代も「赤城」はとても有名な空母ですね。特に外観が奇麗。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    を外し、魚雷を装備する。その時、遂に米機動部隊から発進した急降下爆撃機が攻撃を仕掛けてきた。各艦隊は退避行動を取るが、第一航空戦隊の空母赤城、加賀、第二航空戦隊の空母蒼龍に爆弾が命中し、大火災がおこった。その光景を見つめる北見中尉は呆然とし、友成隊長は飛龍の艦橋へ上り出撃を懇願。山口司令官は第一次
    15キロバイト (2,314 語) - 2019年5月17日 (金) 06:27



    (出典 suwaships.jp)


    航空母艦 赤城

    (出典 Youtube)


    戦闘の主役が観戦~航空戦力に代わった影響もあったのでしょう。

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    【旧日本海軍「赤城」初の3段構えの飛行看板!なぜ改装工事が頻繁に行われたのか?】の続きを読む


    Credit:theatlantic

    Point

    インドの高山にあるループクンド湖は夏になると200体以上の人骨が浮かび上がる場所として知られる

    ループクンド湖は12年おきに行われるナンダ・デヴィー信仰者の巡礼ルートに位置している

    ■骨のDNA分析の結果、遺体には3種類の異なる人種が含まれており、死亡年代も1000年ほど違うものがあった

    インド・ウッタラーカンド州の標高5029mの場所に「ループクンド」と呼ばれる湖があります。ここはヒマラヤ山脈に属しており、一年の内ほとんどは分厚い雪によって湖面が閉ざされている場所です。

    しかし短い夏の時期に雪が解けると湖の底に、200体以上の人骨が浮かび上がるのです。そのことからループクンド湖は別名「スケルトン・レイク」とも呼ばれています。

    1942年に本格的な調査が開始されて以来、研究者たちにより「王や妃、側近たちの人骨だ」「秘密裏に侵入した日本兵のものでは」という確証のない仮説が錯綜している状態でした。

    しかしハーバード大学およびマックスプランク研究所の共同研究により、新たな事実が発覚。なんと200体以上に及ぶ人骨には遺伝的に異なる人種が混ざっており、死亡時期も最大1000年ほど異なることが判明したのです。

    研究の詳細は、8月20日付けで「Nature Communications」に掲載されています。

    遺体の死亡年代が1000年も違う⁈

    先行研究によると人骨の死亡時期はおよそ8〜9世紀頃と推測されています。ループクンド湖は12年おきに行われるナンダ・デヴィ信仰者の巡礼ルート上に位置する人里離れた場所です。

    湖は岩肌に囲まれており、一番近い村でも歩いて3日はかかるほど。暴風や地震などの自然災害が起こると、岩肌が崩れることもあります。

    研究者たちは、人骨の多くが強い衝撃を受けていたことから、災害による岩なだれが死亡原因ではないかと考えていました。しかし新たに行われたDNA分析により、意外な事実が判明したのです。

    Credit:ja.wikipedia

    研究チームは200本以上ある人骨から38体の個人を特定しDNA情報を配列、炭素年代測定法を用いて死亡年代を調べました。その結果、人骨の身元は少なくとも3種類の異なる遺伝子群に別れており、死亡年代も1000年ほどの幅があるとわかったのです。

    まず38体の内23体は、南アジア人に属するものでした。死亡年代はすべて800年頃と特定されており、従来の値に近似しています。

    そのほかの14体は東地中海に属する人々、特にギリシャ人の遺伝子、最後の1人は東アジア人の遺伝子とほぼ一致していました。

    この15人の死亡年代は、いずれも1800年頃とされています。

    「呪われた場所?」謎は深まる

    ここまで明らかになっていながら、実は3つの異なる人種が「なぜ同じ場所で白骨化したのか」については明確な答えが出せていません。

    ループクンド湖は、何世紀もの間巡礼者の通り道として知られてきました。異国からはるばるやってきた巡礼者たちが、地元の自然環境を知らずに災害に巻き込まれてしまった可能性は十分に考えられます。

    また人骨を調査した研究によると、外部に数多くの小さな穴が空いていました。これはその個体が、ある時期に極度の栄養失調にかかっていたことを示すものです。

    Credit:theatlantic

    さらに骨折の様子を調べてみると、いくつかの人骨が鈍器のような物による外傷を負っていることも判明しました。この傷は致命傷というほどではありませんが、動けなくしたり低体温症にさせたりするには十分とのことです。

    また、岩なだれにより骨折し、湖に閉じ込められたとも考えられますが、1000年の間に同じことが何度も起こりうるものでしょうか。

    スケルトン・レイクは訪れた者が死に至る呪われた場所なのか、それとも死体を遺棄する場所なのか。謎は深まるばかりです。

    30年前に発掘された「ヴァンパイア」の正体が判明


    reference: discovermagazinetheatlantic / written by くらのすけ

    呪われた湖? 夏になると200体以上の白骨が浮かぶスケルトン・レイク、DNA検査で新事実発覚

    インドにこのような湖があったとは、とても驚き!


    (出典 news.nicovideo.jp)


    (出典 livedoor.blogimg.jp)


    超ーホラーな湖。でも何か尋ねてみたい。

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    【スケルトンの湖?夏になると、なんと!200体の人骨が浮かび上がる所。「遺体の死亡時期」も1000年も異なることが判明!】の続きを読む


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    image by iStock

     グアテマラ北部の3分の1を占めるペタン地区のウィッツナ考古学遺跡周辺で、研究者らが新たに象形文字の書かれた石碑を発見したらしい。

     未だ謎に包まれている古代マヤ文明が滅亡した原因が本当は何だったのかについて、この石碑がヒントを与えてくれるかもしれないとして注目を集めている。

     これまで干ばつで食糧が不足したため王国間の戦争が激化したせいで衰退したと考えられていたが、もしかするとそれよりずっと以前からかなり破壊的な戦争が行われていた可能性があるという。

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    1000年以上前に古代マヤ文明が滅亡してしまった原因とは?

     古代マヤ文明は、現在のメキシコ南部と中米北部のドイツの2倍ほどの地域に広がっていた。

     その最盛期は、紀元250年から少なくとも900年くらいまでの古典期と呼ばれる時期で、2500万人が暮らしていたと思われ、これは中世ヨーロッパの人口に匹敵すると言われている。

     1000年以上前に滅んだが、その原因は謎に包まれている。人口が壊滅的に減ったとみられ、繁栄を誇った町々の廃墟が今や見る影もなくジャングルと化している。

     研究者たちは、滅亡のさまざまな原因をあげているが、どれも決定的なものはない。

     干ばつが危機的な水不足を引き起こしたせいかもしれないし、農地開拓のための森林伐採が、肥沃な表土が失われるのにつながったのかもしれない。

     また、争いが激しくなり、殺し合いを繰り返したことが衰退に拍車をかけたという説もある。
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    ライダーレーザー光による検知・測距装置)調査で示された、マヤ儀式の中心地全体。ラグナ・エクナーブ(白い部分)を見下ろす石灰岩の尾根に沿って2キロに渡
    ってのびている。ラグナ・エクナーブは、マヤの古環境研究のためのサンプルを採取した湖。
    image byFrancisco Estrada-Belli, PACUNAM & Tulane University

    一般市民を巻き込んだ破壊的な戦闘行為が行われていた可能性も


     従来の研究では、古典期の古代マヤ文明間での戦争はもっぱら儀式化されていたというのが定説だった。

     範囲が限定的で、貢物や身代金のために高官を捕虜にするとか、一般市民など非戦闘員は極力巻き込まないなど厳格な取り決めがあったのだ。

     だが古典期末期のマヤでは兵士だけでなく一般庶民も巻き込んだかなり破壊的な戦闘行為、つまり無差別な総力戦を行っていたことが分かったようだ。その結果、町が徹底的に破壊されたというのだ。

    町を破壊したり王族を井戸に投げ込んだりの情け容赦ない総力戦

     カリフォルニア州メンローパークの米地質調査所(USGS)の地理学者デヴィット・ウォール氏によると、

    破壊行為で町は徹底的に破壊され、王族は連れ去られ、井戸に投げ込まれたり、儀式の中心地に埋められたりした。私たちは初めて、古典期のマヤの攻撃の広範な影響の状況がつかめてきた。マヤがとった手段が地元住民にマイナスの結果を及ぼしたことが分かる

    とのこと。

     現在、古代マヤはこれまで考えられていたのよりずっと早くこうした情け容赦ない総力戦を行っていた可能性があるという考えが主流になってきている。

    ウィッツナ考古学遺跡周辺で新たに発見された象形文字の石碑

     研究者たちが新たな発見をしたのは、ウィッツナ考古学遺跡周辺で過去の環境変化を調べていたときのことである。

     ウォール氏は、


    この研究の最大の難関は、特にペタン地区の現場での作業がほとんどでしたが、とても辺鄙なところにあるということ。ラグナ・エクナーブ湖までの道路はなく、100mもある険しい断崖をすべての機材や装備を運び込んだり下ろしたりしなくてはならなかった。

    湖の周囲には植物が生い茂り、草をかきわけて道を切り開いて水辺にたどり着き、サンプル調査のための橋脚を建てるのに、8人のスタッフで3日間もかかった。

    胸の深さの水の中に立って鉈をふるわなくてはならなかったこともあったが、水辺にたどり着いたら今度はたくさんのワニがこちらの動きをじっと見ているのに警戒しなくてはならなかった


    と苦労を語る。

     その甲斐あってか、思いがけずここで象形文字の書かれた石碑を発見。町の王に捧げられた碑で、「バラム・ホル」というマヤの都市の名前が刻まれており、統治のシンボルである雷神・カウィールの錫杖(僧が持ち歩く杖)と、拘束された捕虜の盾とともにあったそうだ。

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    image by iStock

    攻撃を受けて焼失してしまったマヤの都市「バラム・ホル」


     以前、ウィッツナの南32kmにあるマヤの都市・ナランホで発掘作業をしたときに別の石碑が見つかっていて、そこには紀元697年に「バラム・ホル」が二度目の攻撃を受け、焼かれたと記されていた。

     さらにウォール氏らは、ウィッツナに隣接する湖の堆積物から、大規模な火災があったことを示す3cmの炭の層を発見した。

     これは1700年分の堆積物の中でもっとも厚く、この炭の層の炭素年代測定を行ったところ火災は7世紀の最後の10年の間に起こっていることが判明。ナランホの石碑の内容を裏づけていることが分かった。

    徹底的に破壊された建築物が大規模な戦争体験を物語る

     王宮や象形文字の刻まれた碑など、ウィッツナのおもな建築物が徹底的に破壊されていたことは、この場所が大規模な戦争を経験したという説を裏づけている。

     ウォール氏らは、7世紀が終わるまでの湖の堆積物が、農業の痕跡や燃えた名残など、人間の多くの活動の跡を示していることも発見した。

     しかし、これらの痕跡は攻撃されたと推測されている時期の後では激減している。ウィッツナで見られる破壊の跡は古典期の終わりに見られたものを思い出させるが、違いもある。

     これについてウォール氏は、

    古典期の終わりには王族は殺されるか追放されたが、攻撃の後もその血は残って続いていた可能性がある。しかしウィッツナでは、古典期末期に見られるように、町は完全に消し去られてしまった

    コメントしている。

    苛烈な戦争が長く続いていたのかもしれないマヤ文明社会

     「バラム・ホル」が焼かれたことを表現するのに使われた「puluuy」というシンボルは、別のマヤの都市でも見られたことがある。

     これは、町を徹底的に焼き払うこうした行為は、古代マヤの戦争では普通のことだったことを示している。

     全体として見ると、こうした発見は古代マヤの繁栄や高度な芸術性がピークに達していたときでさえ、すでにこのような破壊的な総力戦が行われていたことを示していて、これがマヤ文明の衰退の日々において特異なことだったとする説に異を唱えている。

     逆に言うと、マヤ文明の崩壊の原因として、これまで言われていたほど戦争が決定的な役割を果たしていなかったということなのかもしれない。

     論文の共著者であるニューオリンズ・テュレーン大学のフランシスコ・エストラーダ=ベリ氏は

    こうした証拠を踏まえて、比較的穏やかな社会から暴力的な総力戦へと移行したことが、マヤ文明社会の崩壊の主な原因だったとする説はもはや現実的ではない。すでに苛烈な戦争はずっと以前から行われていた社会だったのだから。ほかの決定的な理由を探さなくてはならない

    と語っている。

     この研究の詳細は8月5日Nature Human Behavior誌オンラインに発表されている。

    References:Live scienceなど / written by konohazuku / edited by parumo

    全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52278198.html
     

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    古代マヤ文明!実に興味深い。これから次々と解明されていくことに期待していきたい。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    マヤ文明マヤぶんめい)は、メキシコの南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。 マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順にマヤ低地北部、マヤ低地南部、マヤ高地の三地域に分かれている。マヤ
    41キロバイト (5,748 語) - 2019年4月4日 (木) 13:47


    古代宇宙人の戦争?

    <このニュースへのネットの反応>

    【なぜ古代マヤ文明が滅亡してしまったのだろうか?ずっと以前から破壊的な戦争が起きていた可能性がある。果たして・・・】の続きを読む

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